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み言葉への招き

説教

   
神様からのメッセージ・聖書のみ言葉は、礼拝生活の中で私たちに働きかけてきます。礼拝は、前奏から始まり後奏に至るまで、そして日々の生活へ送り出され、次週の礼拝に至るまで続いていきます。特に教会での礼拝は、全てのプログラムに神様を拝する意味が込められています。共に教会に集い、み言葉を聴き、主を讃美することができることを祈っております。          
しかし都合によって、礼拝に出席できなかった方々のために、礼拝での聖書朗読と説教を準備いたしました。スピーカーをクリックすると音声が流れます。しかし準備ができない場合もあります。また高齢や疾病、様々な障害のために礼拝に出席できない方々には、在宅聖餐も含めて訪問をいたします。ご連絡をお待ちしております。


12月28日10時15分〜
 主日礼拝説教

 イザヤ書53章1節ー5節
 ペトロの手紙一2章11節ー17節
  「美しい神の僕として」



12月28日 説教
スピカーから聴くことができます クリックして下さい)


自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
                   ペトロの手紙一2章16節より


○「きよい生き方」
・先週はともにクリスマス礼拝と祝会の時を持つことができました。そして祝会の際に好きな聖句として使徒20.35の「受けるよりは与える方が幸いである」があげられました。

・このようなみ言葉と共に生きることは、積極的な信仰の応答の生活に導くものだといえると思います。それは本日のみ言葉にも通じる信仰者としての生活です。

・聖書ではいくつもの生活の指針となるような言葉が語られています。それらの言葉を基に信仰者の生活が整えられていくのです。聖書のみ言葉に根差した生活とは、聖書の言葉を知っているだけではなく、自らの事として受け止め、生活に反映されるものだからです。

・そうなると「受けるよりは与える方が幸いである」とのみ言葉によって生きる信仰者は、キリストに倣って生きる者であることがはっきりとします。ただこれは与えることで自分が幸せになることができるということではありません。

・聖書を通して示される恵みや祝福などに関しては、神さまに全てがかかっています。本当の意味で受けるより与える生活ができるのはイエスさまお一人です。クリスマスの出来事によって地上にお生まれになったイエスさまは、十字架の死を通してご自身を私たちに与えてくださいました。

・神の恵みの豊かさがここにあらわれています。この恵みを受けている私たちだからこそ、与える者として生きる幸いを示されるのです。そこから私たちが誰かに何かを与える以上の幸いが神さまから与えられる確信に導かれます。

・キリストに倣ったきよい者として生きる道です。このきよさには二つの意味があるといえます。第一には聖なる者としてのきよさです。きよしこの夜のきよしが「聖」を用いてきよしであるとおりです。神さまの聖さの中で生きる信仰者の歩みです。

・二つ目は「清潔」のきよさです。これは清潔のどちらの漢字でも当てはまりますが、人間関係におけるきよさ、潔白さです。それでもこれは自分の努力だけによるものではなく、神の聖さに従う中で与えられる信仰的成長と恵みの結果だというべきものでしょう。

・11節で「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」といわれています。大前提として愛する人たちといわれる信仰の交わりに生きる私たちにとって、地上の命は「旅人」そして「仮住まいの身」なのです。

・本来の姿が神の国である天国にあることを意味します。ここに私たちの地上の命が神さまに属するものであることと、神の聖さの中で生きることへの、希望と確信が示されるのです。

○「異教徒の中で」
・そして続く12節で「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」とあります。

・信仰者自身の生活が整えられることはもちろんのこと、異教徒の間で証しする者として用いられるのです。そのために11節で肉の欲を避けることを命じます。異教徒は肉の欲にふけっている者と理解するからです。

・これもまた、神から離れたところに生じる人間の現実です。周囲にいる異教徒とは異なり、主なる神に従う信仰の歩みを全うすることで、神さまを宣べ伝える者として用いられることを私たちも肝に銘じるべきです。

・そもそもなぜ異教徒の只中に置かれているのかを考えてみると、この手紙の読者について1.1で「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」といわれているように、小アジアの地域に散らされて生活している異邦人キリスト者の姿があります。

・ローマ帝国の支配下にあって皇帝崇拝が求められる中で、キリストを礼拝することは様々な困難や迫害を受けることに繋がっていきます。そのような信仰の友を励ますための手紙がこの手紙でした。

・しかし、信仰的な視点で見るならば、彼らはキリストを宣べ伝えるために遣わされているのです。それはキリスト御自身が異教徒の中にたてられた働きに他なりません。

・そのような意味で「異教徒の間で立派に生活しなさい」との励ましは、私たち自身にも力と慰めをもたらしてくれるものではないでしょうか。この言葉は信仰の歩みが決して空しいものとはならないことをはっきりと示します。

・異教徒が敵対者としてい続けるのではなく、終末の日に共に神を崇めるようになることを合わせて語っているのがこの箇所です。「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」と続きます。

・敵対心を持つ相手でも、「立派な行い」つまり神さまに従う姿によって「訪れの日」つまり終末の日に神を崇めるようになると断言するほどに、空しさを微塵も感じさせないのです。置かれている現状が苦しくとも、イエスさまの教えに従う信仰者の歩みは立派な行いとして異教徒に対する証しとされます。

・そしてこの立派な行いは先ほど「きよい」ということでも確認したように、自分の努力によって作り上げるような清廉潔白さにかかっているものではありません。神さまから豊かな恵みを受けている者として、神さまのみ言葉と共に生きる自覚的な信仰者としての生活です。ある先輩牧師がキリスト者はキリスト道を生きるのだと言っているのを聞いたことがあります。

・キリストの道を進んでいくのです。日本語で「〜道」といわれるものを思い浮かべてみてください。格闘技や習い事などでしばしば用いられますが、その技術や知識を獲得することだけを目的とするのではなく、その人の内面や生活全般に影響を及ぼすものとして理解できます。

・そういった意味で「キリスト道」とはよくいったもので、キリストを知らされた者として、キリストに倣う者として生きるのです。それはただ聖書を読むのでも、礼拝でみ言葉を聞くことで完結するものでもありません。聖書のみ言葉を携え、このみ言葉を表す人生を歩むのです。信仰者自身が聖書を映し出すような存在として用いられるのです。

・私たちが生きるこの地上の生活の中で、あらゆるところで神さまを証しする自分であることを忘れてはなりません。少なくとも地上の秩序を無視するような者として生きることを、良しとしないこの手紙です。

○「地上の関わりの中で」
・13節、14節では「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」と続きます。

・人間の立てた制度とは、ここではまず皇帝といわれていることから、国家が思い浮かびます。同時に基本的な社会生活を考えると、国家という広い所から、それぞれの働きの場である職場、更に身近な所で家庭が考えられると思います。

・それぞれの場所で秩序があり、決まりやルールを守ることが求められるものです。この手紙はとにかくそれらに服従することを求めます。封建的な感覚に現代では違和感を覚える表現であるかもしれません。

・しかしここで言われる服従には前提があることを見逃してはなりません。13節の冒頭に「主のために」とはっきりといわれています。力ある者に逆らわないことを求めるのではなく、主のために服従することを求めるのです。

・その根底には地上の権力が主によって与えられるとの理解があります。私たちの現状を見ると、果たして本当にそうなのかと首を傾げたくなるのも分かります。それでも著者は信仰者に世の秩序に服従することを求めます。

・その理由が15節です。「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」 いうならば善をもって悪を制するのです。イザヤ書における苦難の僕から神の僕として生きる姿が示されます。

・イザヤ書はどのような苦難も、ひたすら受け続ける苦難の僕の姿をあらわします。それを傍観しているであろう人々の思いは、彼自身の罪の結果として神の裁きを受けているとあるように、悪人としてみているのです。

・しかしその実は、私たちを救うためであったことが確認できるものです。ここにキリストの救い主としての地上の歩みが示されます。信仰者はこのキリストに倣う者として生きています。15節から示される善によって無知な発言を封じるといわれていることにも通じるものです。

・理不尽があろうと迫害の現実があろうと、それは神に従う歩みを諦める理由にはなりません。むしろそういった状況におかれている時にこそ、神の権威をしっかりと踏まえながら地上の歩みを、キリストと共に貫いていくのです。

・16節「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」といわれているとおりです。

・信仰者は自由な者として生きます。それは地上のあらゆる権力に縛られないといっても良いでしょう。そういわれると、国家の秩序に縛られる必要はないと考えられてしまうかもしれませんが、決してそうではないことは本日の箇所から明らかにされました。

・この自由さは言い換えるならば、本当に従うべき方を知っているということです。地上のすべての権力、権威の上にたつ神さまを知っていることに他なりません。圧倒的な力を持つものは自由に生きることができます。

・極めて簡単な例を挙げると、こども園に遊びに行くと、よく相撲しようと言ってくる子どもがいます。当然のことながら、圧倒的な体重差がありますので、勝ち負けは私次第です。勝つことも負けることも自由自在です。

・神さまによって与えられる自由さというのは、上にたつことも、下で仕えることもできる自由さを持っているのです。だからこそより秩序の中で、誠実に生きることが求められているのではないでしょうか。

・この自由は神さまに由来するものですから、それをもって悪事の口実としてはならないのです。神さまからの自由を与えられた者として、神の僕として生きることに徹底することをこの手紙は命じます。

・皇帝崇拝が求められる中でもキリストを礼拝し続けるのが信仰者です。仕えるべき相手が、神か人かを明確に判別することができるのです。神が共にいてくださる確信の中で、世に仕えることでキリストを指し示す者とされるのです。

・これにかかわる具体的な命令が最後に示されます。17節「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」

・すべての人を敬うとは、異教徒を含む人々を尊重することを意味します。博愛ともいえるような姿ですが、兄弟に対しては愛することを求めます。この愛とは神さまの愛に由来する愛です。

・兄弟とは信仰者同士の交わりを指すからです。信仰者の交わりは神の愛に満ちている交わりです。その他の人々の交わりと明らかに違う性格を持つ交わりです。私たちの人間的なあらゆる感覚を越えて、キリストを信じる信仰によって一つとされる交わりです。

・そしてこの中心には神の愛があります。クリスマスの出来事が神さまの愛の表れであることは毎年のみならず、毎週、毎日聞き続けるキリスト教信仰の根幹をなす理解です。

・そして、神を畏れ、皇帝を敬うことを命じますが、ここにも明らかに人と神の違いが表れています。皇帝を敬うことはすべての人を敬うことと同じ単語で記されています。人間的な尊敬、相手を尊重する姿勢です。

・一方で「神を畏れ」とあるのは、漢字表現でも分かる通り、畏怖の念から生じるおそれです。恐怖ではなく、これ以上ない存在に向けられる思いです。地上の権威ではなく、神の権威のみに頼る信仰者の思いの有り様がここに示されます。

・神の僕として生きる人生は、神さまのみ言葉に聞き続け、神さまのみ言葉によって社会に押し出され、社会の中でも神さまのみ言葉に従う誠実さによって立派な行いを示し、神と共に生きる素晴らしさや美しさを証しする人生です。

・この歩みは時に空しさを覚えるようなこともあるかもしれません。それでも本日のみ言葉は必ず恵みを持って導かれる希望を確かにしてくれるのです。

・そして、神の僕の歩みはまことの自由の中で生きる道であり、この自由は神さまの秩序の中で、人々の中でも良い者として生きる美しさを併せ持つのです。







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1月25日(日)
『主にあって尊敬し合う関係』
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Tペテロ3章:1節〜7節
旧約聖書より
創世記18章:9節〜12節

1月18日(日)
『キリストの傷による癒し』
新約聖書より
Tペテロ2章:22節〜25節
旧約聖書より
イザヤ書53章:6節〜10節

1月11日(日)
『キリストが残された模範』
新約聖書より
Tペテロ2章:18節〜21節
旧約聖書より
イザヤ書53章:1節〜5節

1月4日(日)
 新年第1主日家族礼拝
 『最初の奇跡』
新約聖書より
ヨハネによる福音書 2章:1節〜12節

12月28日(日)
 年末主日礼拝
 『美しい神の僕として
新約聖書より
Tペテロ2章:11節〜17節
旧約聖書より
イザヤ書53章:1〜5節

12月24日(水)
 クリスマスイブ礼拝
 『永遠の愛による
      プレゼント

新約聖書より
ヨハネによる福音書3章16節

12月21日(日)
 クリスマス家族礼拝
 『変わらない贈り物
新約聖書より
マタイによる福音書
 2章:1〜12節

12月14日(日)
 アドベント第3主日礼拝
 『今は神の民
新約聖書より
Tペテロ2章:6節〜10節
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ホセア書2章:1節〜3節  
12月7日(日)
 アドベント第2主日礼拝
 『主を味わう者として
新約聖書より
Tペテロ2章:1節〜5節
旧約聖書より
詩編34篇:1節〜11節
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11月30日(日)
 アドベント第1主日礼拝
 『朽ちることのない
    永遠の言葉』
新約聖書より
Tペテロ1章:22節〜25節
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イザヤ書40章:6節〜8節

11月23日(日)
 第4主日礼拝
 『信仰と希望は
   神にかかっている』
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Tペテロ1章:17節〜21節
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詩編62編:1節〜9節

11月16日(日)
 第3主日礼拝 
 『ひたすら待ち望む
新約聖書より
Tペテロ 1章:13節〜16節旧約聖書より
出エジプト記19章:3節〜 
           9節

11月9日(日)
 第2主日礼拝
 『救いを示す
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Tペテロ1章:10節〜12節
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ミカ書5章:1節〜5節

11月 2日〔日)
 召天者記念主日礼拝
 『天国に向けて一つ
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エフェソ1章:3節〜14節

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10月26日(日)
 第4主日礼拝
 『聖書のみ
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Uテモテ3章:14節〜17節
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詩編119篇:105節〜112節

10月19日(日)
 第3主日礼拝
 『見なくても愛し
     信じる喜び』
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Tペテロ1章:5節〜9節
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10月12日(日)
 第2主日礼拝 
 『生き生きとした希望
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10月5日(日)
 第1主日礼拝
 『離散して仮住まいして
     いる人たちへ』
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Tペテロ1章:1節〜2節
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詩編137篇:1節〜6節


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