神様からのメッセージ・聖書のみ言葉は、礼拝生活の中で私たちに働きかけてきます。礼拝は、前奏から始まり後奏に至るまで、そして日々の生活へ送り出され、次週の礼拝に至るまで続いていきます。特に教会での礼拝は、全てのプログラムに神様を拝する意味が込められています。共に教会に集い、み言葉を聴き、主を讃美することができることを祈っております。
しかし都合によって、礼拝に出席できなかった方々のために、礼拝での聖書朗読と説教を準備いたしました。スピーカーをクリックすると音声が流れます。しかし準備ができない場合もあります。また高齢や疾病、様々な障害のために礼拝に出席できない方々には、在宅聖餐も含めて訪問をいたします。ご連絡をお待ちしております。
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2月22日10時15分〜
主日礼拝説教
詩編 32編1節ー11節
ペトロの手紙一 4章1節ー6節
「神との関係に生きる者として」


2月22日 説教 (スピカーから聴くことができます クリックして下さい)
「神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
ペトロの手紙一4章6節より
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○「何によって武装するか」
・武装しなさいとの言葉を聞くと、物騒な話だと思われるかもしれません。これを聞いて聖書は力にものを言わせて、無理やり信じさせるなどといった勘違いをされてしまうと大変困ってしまいます。
・特に昨今の世界情勢を見ると、そのような感覚を持たれてしまう危険があることを思わざるを得ません。クリスチャンを自称する人々の傲慢で強引な姿によって情勢が左右されてしまうような出来事をしばしば見聞きするからです。
・実体験として、そのような問いかけを受けたこともあります。自分の利益追求ばかりするような姿は、キリスト教としてどうなのですか?と教会とは全く関係のない方から質問されたことがあります。
・立ち話のような状態だったので、詳しくお話する時間はありませんでしたが、その姿がそのままキリスト教を代表する姿だとは思わないでください、と答えました。加えて、近代の社会福祉の始まりはキリスト教にあるのは、自己利益とは真逆の姿であることも伝えました。
・これについては、興味がある方は調べていただければよいと思いますが、17世紀初めにイギリスで始まったエリザベス救貧法というものがあります。これは国内を聖公会の教区で区分して、教区内の貧困者の救済を始めたというものです。
・隣人愛の実践ともいえるような行動ですし、基本的にまっとうな宗教は、平和と平安を求める姿を持っています。それを破壊して暴力的に用いてしまうのは、間違いなく人間の愚かさが伴う時です。自己実現や自国の利益追求、また隣人より優位に立ちたいと思ってしまう人間の愚かさです。
・ペトロの手紙が語る武装しなさいとの言葉は、このような人間的な愚かさに対抗するために持つべき装備です。そもそもここで言われている武装とは「心構え」として語られているものですから、直接的な攻撃を想定していないことは明白です。
・1節を見ると、キリストと同じ心構えを装具として身に付けることが求められていることが分かります。特に肉に苦しみを受けになったキリストのお姿に倣った地上の信仰者であることを示します。
・私たちはキリストのご受難を覚えるレント、受難節の生活を始めました。これはキリストが肉の苦しみを経験されたその歩みを見つめつつ、私たちの肉の罪の姿を悔い改める日々です。
・そしてキリストの十字架の死と復活によって、罪に勝利された姿を知らされている信仰者です。キリストの肉の苦しみを自分の心構えとして持っている信仰者は、地上の罪とのかかわりを絶った者だというのです。
・心構えと言われると、人生の目標のようなイメージを持つかもしれませんが、これは覚悟を伴う決意です。たとえ守れなくても仕方ないというような曖昧なものではありません。自分の生き方を明確にする内面的な覚悟に他なりません。
・そもそも私たちは信仰の事柄について、どのように捉えるべきなのでしょうか。信仰を持たない人からすると、趣味の一環のように受け取られているような節があるように思えます。
・牧師のようにいわゆる宗教家として生きている者にはともかく、一信仰者に対する視線は異質なものを見るような感覚が現実としてあるのではないでしょうか。いうなれば普通の人とは違うと。
・ここで考えられている普通の人とは、社会の中で大多数の人々と同じ感覚を基にした生活をしている人です。これは社会倫理や常識といった言葉で言い換えることができるものです。社会の中での風習や慣習といったものだともいえると思います。
・これは私たちが置かれている今日の状況でも、大きくうなずくことができるようなものだといえます。ペトロの手紙の読者たちがローマ帝国内で、信仰的な少数者としての生活を余儀なくされていたのと同じように、私たちのこの国での生活は少数者としての生活だからです。
・日曜日ごとに礼拝することが異質なものとして眺められることがありますし、食前の感謝の祈りも普通のこととして受け止められなかったり、多くの人が行なっている風習などを行わなかったりすると不思議がられたりします。
・わざわざ和を乱すことをするように勧めるつもりは一切ありませんが、キリストに倣う生活から離れるようなことは、厳に慎むことが求められますし、キリストに倣った良い生活をすることで、キリストを証しすることがあることを確認してきたここまでのペトロの手紙でした。
・地上の肉なる罪の生活に対抗すべく、キリストに倣った信仰者として生きるために励ますのです。それは他ならぬキリストの福音によって武装された信仰者としての姿に繋がっていくのです。
○「地上での摩擦」
・しかし、キリストの福音に生きようとする時、私たちには様々な摩擦が生じることが想像されます。特にそれまでとは違う生活を選び取った場合には、同じことをしていた人々からは、なぜこれをやめてしまうのか?と思われることは当然のことでしょう。
・そのようなやめるべき悪い生活の具体例が3節で列挙されています。性的、またアルコールによる乱れた生活が示す不道徳、そして偶像礼拝という神さまとの関係の乱れが示されていることは、当時のこの手紙の読者の背景に、当然のごとくはびこっている人間の欲望に満ちた生活があったことを意味します。
・そうではなく「神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」と2節で確認されるのです。神の御心と人間の欲望とは相いれないもので、正反対に位置するものです。
・神の御心に従って生きようとするならば、人間の欲に満ちた地上の喜びから離れるのです。ここに確かな覚悟が伴う決意としての心構えがあるのです。これまでの不道徳な生活を振り返るならば、もう十分に悪を行いつくしたのです。
・1節にあった「罪とのかかわりを絶った者」とは、その人の中で罪がなくなったわけではなく、罪と手を切ったこと、罪はなくなったわけではないけれども、その人の中で休止することになったことを意味します。依然、罪を持ってはいるけれども、その存在を見つめつつ、キリストの福音によって罪と手を切って、新しい生き方を選び取る恵みが与えられている信仰者なのです。
・これ以上放縦の生活をする必要はないのです。それでも共に放縦の生活を送ってきた人々からすると、なぜ仲間から外れていくのか理解できないのです。今まで一緒にしてきたのになぜ離れていくのかと訝しむのです。
・4節「あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」とあるのは、まさにこのような私たちの現実に向けられている言葉ではないでしょうか。
・時代や場所を問わず、聖書は私たちの罪の現実をしっかりと捉えているのです。神の救いの御言葉が普遍性を持つことはもちろんなのですが、私たちの罪の現実も変わることのない不変さを持っているといわざるを得ません。
・そして、この地上における人間の罪は、何のお咎めもないというものではありません。咎められることがなければ、誰でも楽しみにふける生活をしたいと思ってしまうものです。そういった怠惰になびいてしまう私たちの本性があることは認めざるを得ません。
・不審に思うとは「驚く」とか「奇異に感じる」ことです。それまで普通の生活を送っていた人が、そこから離れることはサプライズの出来事なのです。私たちの間でもそうでしょう。ある人が突然人が変わったような生活を送り始めたならば、それが本当に変わったのかどうか確認したいと思うはずです。
・大伝道者と言われたパウロの姿を思い起こしてもそうです。以前はキリスト者を迫害して回っていた人物が、今度は正反対にキリストの福音を宣べ伝える伝道者と変えられたことはすぐに受け入れられることは難しいものでした。
・使徒9.26「サウロはエルサレムに着き、弟子たちの仲間に加わろうとしたが、皆は彼を恐れ、弟子だとは信じないで恐れた」とあるのはその典型的な反応です。それまでの悪行の数々からすると、はいそうですかとすぐに受け入れることなどできません。
・自分の周囲に過去に重大な罪を犯した人や自分にひどい仕打ちをした人がやってきて、過去の自分とは違うので、仲良くしてほしいといわれても、すぐには受け入れられないのではないでしょうか。
・その当事者となってみてください。自分が変わったことを示そうとするならば、どれだけの努力が必要か計り知れません。変わったこと示すために、あきらめずに変わった者としての言動に努めるほかありません。
・神さまとの関係において善い生活を求めるならば、なおのこと信じてもらえなくても、必死で神さまの御心に従った生活を、信仰の応答としてなしていくものとされていくのです。
・この応答として、信仰者が地上のひどい乱行から離れることは、神さまの御前に立たされる者であることを知らされている以上、不可欠なことです。それは罪の裁きを逃れるためという視点も勿論あります。
・しかし、何よりも、神さまの救いにあずかった者として、イエスさまの十字架の出来事を福音として受け取った者としてどう生きるかが問われるのです。たとえ周囲との様々な摩擦が生じたとしても、信仰者としてどう生きるかの覚悟が問われるのです。
○「神さまとの関係にある者とそうでない者」
・また、終末的な視点を失ってはなりません。終末の時に神の裁きの座に立たされることを知らされている私たち信仰者です。この手紙もその時に「申し開きをしなければなりません」と確かに語ります。
・それは神さまによって救われたものとしてどのように生きてきたか、神さまの御心に従って地上の命を生きることができたかが問われる時です。この場での申し開きにおいては、偽りや取り繕った言葉は意味をもちません。
・神さまを前にして、すべてがさらけ出されるからです。誰一人として決して言い逃れできない厳しい裁きの時です。しかし、この厳しさは明確な基準によって裁かれるということです。
・つまり、善悪の判断の線引きが一貫しているということです。私たちの判断は極めてあいまいです。法の秩序を持っていたとしても、法に対する理解は千差万別です。本来であれば、法によって秩序付けられて常に同じ判決がされるべきなのですが、立場や状況、関係性などによって変化があります。
・それは人が人を裁く中で必要な柔軟さとして捉えられたり、不公平として捉えられたりします。その視点も人それぞれです。常に一定であり得ない不完全な私たちが互いに完全に裁き合うことなどできないのです。
・しかし、神さまは私たち人間とは全く違うまことの正しさ、公平さを持つお方です。相手がどのような存在であるかにかかわらず、神さまの定めの中で一貫した裁きを下されるのです。神さまの御心に適う者には赦しを、そうでない者には裁きを下されるのです。良いものは良い、悪いものは悪いこの二つ以外にはないのです。条件付きの判断もあり得ません。
・だから裁かれることのないように、神さまの御心に適う道を歩もうと必死になる思いが出てくることも十分に想像できますし、この視点を完全になくしてしまってはならないと思います。
・むしろこの罪の裁きによって死の滅びに晒されなければならない自分であることを知ることによってはじめて、罪の救いの喜びが増し加えられるのです。悲惨な経験をした者は、そこから離れた生活に喜びを覚えるものです。
・たとえそれが平凡な日常であったとしても、苦しみを覚える日々であったとしても、あの悲惨な日々から遠ざけられているという一点だけで、置かれている現状に喜びを覚えるのです。
・「神との関係で、霊において生きるようになる」とは、永遠の滅びに向かわなければならない自分が、キリストによって永遠に生きる救いへと招かれている驚くべき希望を指し示すのです。
・肉に苦しまれたキリストとの出会いは、私たちに自らの罪をはっきりと示し、そこから救われる道筋をも確かに示してくださいます。これは旧約聖書の時代から変わらず告白される、神さまに救われた信仰者の喜びです。
・神さまの救いの御業が一貫して変わることなく、私たちの中で示され続けている現実が分かります。そして、神さまとの関係に生きる者はこの喜びの中を生きる恵みが与えられています。
・神さまとの関係に生きる者として一番大切にすべきは、神さまを正しく礼拝することです。私たちの思いを満たすのではなく、神さまの御心の中で神さまに喜んでいただく者として福音を聞き、福音に生きる者として歩んでいくのです。どんな罪人でも赦し、神さまの御前に良いものとしてくださるキリストの福音の恵みに感謝しつつ、神さまとの関係に生きる一週間を歩み始めるのです。